はじめまして。
「街角ワンダーランドのわたし」です。
この『どうしたらそんな大人になれるの?』は、子育てについて訊くインタビューです。
インタビューするのは現在育児中の「わたし」ですが、インタビューの対象は子育て経験者ではなく被子育て経験者、つまりかつて子どもだった大人です。
とにかく「わたし」自身が
大好き。
かっこいい。
うらやましいいい!!
と思う、大人に訊きます。
「大好き」で「かっこいい」ひとって結構いますよね。「尊敬する」とか。
しかしそれに加えて、このひとの人生を生きてみたい、と思うほどの「うらやましい」となると案外少なくなりませんか。
それがどうして「子育て」につながるのかというと・・・(長くなるので省略します)
第一回目にお話をうかがうのは加藤 義夫(かとう よしお)さん。
1954年生まれ、大阪府守口市のご出身で、グラフィックデザイナー、ギャラリストを経て1997年より「加藤義夫芸術計画室」を主宰し、展覧会の企画や新聞等への執筆、大学での教職など国内外の美術に関して多岐にわたるお仕事をされていらっしゃいます。
2020年より館長をおつとめの宝塚市立文化芸術センターにてお話をうかがいました。
加藤義夫(Yoshio Katoh)さん
加藤義夫芸術計画室 主宰 (キュレーター/美術評論家)
宝塚市立文化芸術センター 館長
朝日新聞大阪本社「美術評」担当
所属団体:
国際美術評論家連盟 aica japan 会員 / 民族藝術学会 理事 / 日本文化政策学会 会員 / 日本アートマネジメント学会 会員 / 一般社団法人日本現代美術振興協会 理事 / 一般社団法人日本デザインマネジメント協会 理事 / 美術館にアート贈る会 理事 / 芦屋市文化振興審議会 副委員長 / AAPアシヤアートプロジェクト 実行委員 / ハコバカウクレレ部
教育機関:
大阪芸術大学 客員教授 / 大阪芸術大学付属大阪美術専門学校 客員教授
大阪教育大学/神戸大学/放送大学/武蔵野美術大学 非常勤講師
(2020年11月現在)
商店街のど真ん中育ち
ーー 今回のインタビューを始めたきっかけがいくつかあるんですけど、その一つがわたし自身の悩みだったサンタクロース問題で。
いわゆる「クリスマスの朝起きると枕元にサンタからのプレゼントが・・・」というやつですが、子どもにいつかは嘘と分かる嘘をついていいものかと、親としての先輩方に教えを請うつもりでFacebookで問いかけてみました。
ところが親という立場からではなく、自分が子どもだったときのことをコメントやメッセージくれる方も多くいらして、そのエピソードがもう、的確すぎるほどその人らしい!と思えたこと・・・遺伝はあるとはいえ子どもの頃の親の態度って性格形成にかなり影響ありそう、子育て当事者の親側ではなく、子ども側から考えてみたいと思いました。
加藤さんのお家はサンタクロース、来てましたか?
それはね、冷めてたね・・・
生まれ育ったのが神社を中心としたアーケード商店街でした。
12月になるといつもは一日中ずっと演歌が流れている商店街に「ジングルベル」とか「赤鼻のトナカイ」とかが流れて、サンタの衣装を着て歩いてる人がいて、ケーキ売ってる女の子も赤い帽子をかぶってて、福引があって・・・商戦のキャンペーンとして「クリスマス」というものが使われていたのは小さい頃からわかってた。
サンタは架空のものであって実際にそんなものは存在しなくて、あの赤い服はお店の人が着る衣装なんだ、と。
ーー なんと・・・信じてないパターンだろうなとは思っていましたが、サンタの衣装の裏に「商売」が存在する仕組みまで見えていたとは。
クリスマスのそういう習慣が時代的に今ほど定着してなかったこともあるかもしれないけど、家としても母親は教員で父親は大阪市の公務員でそういうものを信じるという環境ではなかったね。
宗教的な概念もなく、12月24日くらいになったら父親がバタークリームケーキを買ってきて、長靴のお菓子をいただく、というのがクリスマスだったな。
年末の忘年会シーズンで大人たちも三角の帽子かぶって酔っ払ってて。その帰り、家族への手土産の寿司折りがケーキと長靴のお菓子に替わる時期という感じ。
知識や教養は盗まれないし失われない
家は商店街の中だったけど「しもた屋(仕舞た屋/しもうたや)」と言って、商売はしていない家で。
隣が豆腐屋さん、横がクリーニング屋で、寿司屋でこっちが駄菓子屋で・・・真正面は10ヶ月払いでスーツが買える洋服屋。お店独自でローンを組んで買えるシステム、当時では先端的なやり方だった。
その横にあったのが東映映画のロードショー館。
そこから流れる流行歌を小さな頃から聞いてた。1950年代は「べサメ・ムーチョ」や「キサス・キサス・キサス」とかラテン音楽が流行ってて。
そんな環境でした。
ーー 子どもにとってはかなり情報量が多そうな環境。家の前が映画館っていうのもなかなかないですよね。
家があった場所はもともと母方のお祖父さんが理髪店を営んでいた場所に近いところ。
お祖父さんとお祖母さんは明治の人で、娘たち(加藤さんの母親とその妹)二人とも師範学校(現在の大阪教育大学)で教員免許を取らせて、小学校の教員にさせて。二人ともずっと教員として働いていました。
ーー へえ、お二人とも。
お祖母さん自身はミルクコーヒー屋とか喫茶店もしていて、いろいろ苦労しはったみたい。
理髪店も職人を雇うんだけど売り上げを持ち逃げされたり。前借りされたまま消えられたり。
ーー うわわわぁ・・・
で、もう「商売は嫌」と思ったらしい。
商売は浮き沈みがある。
戦争が起こったり災害があったりもする。泥棒が入って何か盗まれることがあるかも知れない。でも「物は盗られてもその人が持っている教養や知識は盗まれない」という考え方が、お祖母さんが娘たちにそうさせた背景にあったみたい。
そして「教育にお金をかけておけば女性でも生きていける」という考え方も。
戦争や災害で丸焼けになっても本人の知恵や免許で食っていける、と。
そういう風に聞いて「なるほどね」とは思ったね。
ーー 確かに。かたちのある物質は失うことはあっても頭の中にあること、知識や教養は生きている限り失われることがないし、その豊かさは男女も関係ない。
子どもの頃は神社(大阪府守口市「守居神社」)で遊んでいたね。
そこで集まって「べったん(メンコ)」やったり。「しゃしんべん」といって表に当時のキャラクター、赤胴鈴之助や月光仮面、鉄腕アトムとかが印刷されたちょっと大きめのカードがあって、それで賭け事をする。
そうこうしていると小学校の先生が神社にやってきて一網打尽に取り締まる、という(笑)
ギャラリーの仕事
ーー 家の雰囲気としてはけっこうカタい感じだったのでしょうか。
そうやね。当時「給料取り」て言い方をして商売人の家ではなかった。
ーー 居場所は商店街の中ではあるけれど商売人の家ではない。
お祖母さんのそういう苦労した経験からの思いがあって、長女である母親には公務員の父親と見合いで結婚させて。
僕自身も商売的なセンスはないね。
11年くらいギャラリーの仕事※1してて、これはバクチみたいな仕事。
やってわかったのは「向いてない」ってこと・・・
ーー そうですか。すごーくご活躍されていたような気がしますが・・・
※1ギャラリーの仕事
1987年10月に開廊した「児玉画廊」。1993年「児玉現代芸術研究所」設立、1997年閉廊。
大阪市西区江戸堀にあった現代美術専門の企画画廊で、加藤さんは開廊当初よりディレクターをつとめる。
イタリア、ドイツ、韓国、日本の現代美術の紹介に努め、オーナーの児玉竹之助さんはイタリアの美術の紹介やイタリアオペラコンサートを支援するなど、日伊関係発展の功績に関して1995年にイタリア共和国大統領よりイタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章を授与されている。
そのほか、国内のアーティストの海外への紹介も積極的に行う。アーティスト川俣正さんのプロジェクトについては書籍「加藤義夫芸術計画室10年全仕事 ヨッチャンの部屋」、または『KAWAMATA 川俣正 ー アーティストの個人的公共事業』に詳しい。
ちなみに現在、天王洲TERRADA Art Complexにある(以前は大阪、京都、白金にあった)同名の児玉画廊はまったく関係のない組織。
最初はバブルのときでよかったけど景気が悪くなったり、阪神淡路大震災もあってそこで持ちこたえるのが難しい、売り上げも難しい。
お客さんと話を合わせるのも難しかった。
商売が上手い人というのはうまくお客さんのお話にも乗って買っていただく、ということができる人だと思うけど、僕は美術館との仕事も多くしていて「美術史的なところでいかにこの作品が重要か」というところでは話はできるけど・・・
例えば、個人のお客さまは話を聞くのを楽しみに来る。
「注目しているアーティストはいますか」「ヨーロッパやアメリカの動きはどうですか」とか、当時はインターネットもなく情報を得る方法がなかったこともあって、世界のアート事情を聞く手段としてしょっちゅう来る。
で、作品を買っても24回払いにして振り込みではなく持って来る。作品買うだけでなく訪ねてきてギャラリーの人や作家さんと美術のお話することにプラスαの価値を見出しているから。
そんな中で「話聞いていただくのもいいけど次の作品も買ってほしい」という気持ちは出てくるんだけどなかなか言い出せない、自分が卑しく思ってしまって。
相手が美術館の場合、学芸員とのやり取りになるので向こうから来たり、こちらから資料を送ったりしたところでその美術館のコレクションの流れに合えば「買います」となる。
ベネッセコーポレーションなど企業の美術館とか、公立の美術館、原美術館とかが買ってくれはったけど、個人コレクターとの商売するのがつらいな、と思ってたね。
デザインの仕事
現代美術はほとんど美術館が買ってくれていて僕自身も美術館に作品を入れよう(売ろう)と仕事していたけど、95年に阪神淡路大震災があったり景気が悪くなり税収が悪くなると文化予算が削られる。公立美術館のコレクションのための購入予算が0という状態が続くと、ギャラリーは個人コレクター頼りになる。
企画を立てる仕事もしていたけどその収入はほとんどキュレーター費だけで展示作品を買ってコレクションに入れてくれる訳ではなかった。
ーー すでにギャラリーの外でも企画のお仕事をされていらしたのですね。
美術史的な価値を扱う、という加藤さんの得意なところを抽出していった感じなのでしょうか。
得意なところなんてないよ(笑)
逆ちゃうかな。得意なところ、というよりできないことを「できない」「できない」「できない」としていったらこうなった感じ。できないことやってるとストレスになるからね。
デザインも10年やったけど向いてなかったね。
ーー 確かにデザインも商業的、商売的な部分が大きい仕事ですね。
20代のころは純粋に「実力があればこの世界でやっていける」と思っていたけれど、電通とか大手広告代理店を通したり大きな企業の仕事をしていくと実際にはそうではなく、営業活動が根本にあることがわかってくる。
いかに企業の人たちとお友達になって新地や祇園に飲みにいけるか・・・遊ばせるか。
ゴルフ行って友達になるとか。
企業人はデザインがどうとか、より「まぁ〇〇ちゃんのとこの事務所のデザインやったらまあ友達やし間違いないからこれにしとくわ〜」程度の判断で動いていくことの方が多い。営業ができないと存続ができない。
結局は接待、交際が最も重要とわかってきた。
もうそれは自分が思っていた「デザインをやりたい」という仕事ではないのでストレスになって。
「もうやめたいな」と思っていた頃、平行して作品を作っていた時期もありました。
仕事でデザインをしてうちに帰ったら絵を描いて。
でも絵を描くほうが面白いから夜遅くなる。で、朝は早くから仕事に行かなくてはいけない・・・
絵を描いた時期
それで「イラストレーションやったら自宅で個人でできるかな」という考えもあって会社は辞めて。
あとお絵かき教室のアルバイトも頼まれて8年間くらいしていました。
でも「絵でいこう」と思っても、絵って売れへんよね。
一回個展したこともあるけど、最初の個展ということでご祝儀みたいに知人が買ってくれるくらいで、「これでは食べれないな」と、どうしたもんかと思っていたときに「ギャラリーの企画の仕事があるんですけどうですか」と具体美術協会の嶋本昭三(しまもと しょうぞう)さんに声をかけられました。
嶋本さんは当時京都教育大学の教授もしてはって大学にお勤めしながら、甲子園口にご自身のアートスペースを持ってはって、そこで展覧会もやってはった。そのスペースのグループ展かなんかに作品を出品したことがあって。
で、行って喋ってたら「加藤くんデザインやってんねやったら」と声をかけられ、具体美術協会が解散したあと嶋本さんがつくった現代美術のグループAU(Art Unidentifiedの略名)で出していたタブロイド判の情報誌(会報誌)のレイアウト、デザインをするようになって。
そのとき今まで写植でやってたデザインを初めてワープロでやってね。3ヶ月くらい行ってたかな。
そのとき「ギャラリーの企画の話があるんだけど、君、展覧会の企画とかできる?」て訊かれました。
で、「できます。」て言うて。やったことないけどね。
ーー (笑)
当時はこんなに長く続くとは思ってなかったけど、これがきっかけで「デザイン」から「アート」へと移って行った。
ーー その「できます」ってどこからくるんですか。直感的なもの?
それは「やりたかった」「やってみたい」から。
ーー イメージは最初からあったのですか。こんなギャラリーとか、こんな作品でこういう展覧会がやりたい、とか。
僕が画家になりたいと思ってた時期があったから「画家にとってこういうギャラリーがあったらうれしいよね」という考えが基本にありました。
具体的には「ちゃんと契約してくれる画廊」。
1/3の価格ではあるけれど、作品を全部買い取る。カタログを作る。『芸術新潮』など媒体にも宣伝する。パーティもします、と。
買ってもらうと画家は安定して仕事ができるようになります。一度の展示で少なくとも数百万、多いときで800万くらい渡したかな。
それをやりたいと思っていました。
ーー なるほど。アーティストも「買ってくれる」「宣伝もしてくれる」とわかっていたら制作に集中できますし、その分作品の精度も上がりそうです。
その最初期の展覧会はどういうものだったのですか。
嶋本さんとのつながりで、国際的な作品を大阪で見せる、という感じやったかな。
クリストの写真なんかがあったり、当時はまだあまり日本で見られなかったチェコなどの共産圏のアーティストの展覧会、NYイーストビレッジのストリートアートみたいな作品も扱ってた。
大阪とミラノが姉妹都市ということで、メールアートのカベリーニ(Guglielmo Achille Cavellini a.k.a GAC)が来て大阪の百貨店で展覧会をやったとき、通訳をしていた東京芸大出身でミラノ在住のアーティストとお友達になって。
そのひとに「イタリアの展覧会しない?」と言われてイタリアのギャラリーとの繋がりもできました。
その頃日本では、イギリス、アメリカ、フランスの作品が紹介される機会はあったけれどイタリアはあまりなくて。
イタリア語もできないけど繋いでくれる人がいたからうまくできた。
イタリアの美術の紹介をまだみんなやってない頃に、それをやろうと思って児玉画廊のギャラリーオーナー児玉さんにスポンサーになってもらって、「売ったらお金返していきますよ」と。
ーー それが児玉さんのイタリアからの勲章授与にも繋がってくるわけですね。
加藤さんは海外とのお仕事も多いですよね。語学的にはどうですか。
カタコトで会話はできてもビジネスでは無理よね。誤解が多くて。
日本人同士でもあることだとは思うけど、わかってるって言っていてもわかっていなかったり。
契約については通訳を通して交わしていくようにしています。イタリアだったらその友達だったり、ドイツはドイツ文化センターを介して。
小学生時代の習いごと
ーー めちゃくちゃ英会話がんばってた、というわけではないのでしょうか。
小学校6年のとき英会話教室に行かされてたけどね。
ーー あ!やっぱり習ってる!
行くのが嫌でね、、1年くらい行ったと思うけどあんまり関係ないと思う(笑)
中学上がる前に習わせようと思ったんやろね。発音の練習、LとRの違いとか色々やってたけど。
ーー お絵かき教室も行ってたんですよね。
行ってた。行ってた。
うちの母親の妹が大阪教育大学出て音楽の先生をやっていて。大学の同級生で教育大の先生になったひとがいてて、独立美術協会の会員やったひと、そのひとがしてはった教室。
小学生1年の頃行かされてて、そこで絵は好きかなぁとは思ってはいたけど・・・
すっごいでっかい鉄道模型があって「面白いなぁ」と思って見ていたり。その先生が鉄道ファンやったんやろね。
あと白の油絵の具ね、ジンクホワイトとかチタニウムホワイトとか、こんなごっついの(両手であらわすこと胸幅大)があって「何これ!?」てびっくりして(笑)
ーー へぇ、普段見ないようなものとかプロっぽくてかっこいいものが間近にあるのは子どもには楽しそうな環境。子どもの頃に関わっていたアート的なものってその教室で絵を描いてた程度なのですか。
そうそう。
その教室の関係で独立美術協会がやっている独立展の子ども部門に出したりしていたこともあって子どもの頃から美術館に行く、という機会はあった。そのときにやっていた展覧会は見ているとは思うけど、あんまり覚えてないね。
あと書道は長くやってて幼稚園から中1まで。7年くらいかな。
かといって、今や丸文字みたいな字で「意味ないね」って言われてんけど。
ーー ああ、知ってます、かなりかわいい感じですよね。いわゆる「きれいな字」ではないのかも知れませんが、とても読みやすいです。
一応「初段」ていうのをいただいているんですよ。小学生のときにね。
ーー すごーい!子ども時代の7年間てかなり長いと思いますけど楽しかったですか。
そこはね、なんで行ってたかというと『サザエさん』『おそ松くん』とか全巻あったのよ。ほかのマンガもいっぱいあった。みんなが待ち時間に読むために置いてあったマンガが読めるから行ってた。
書道教室はそのマンガの思い出と「硯でするのがめんどくさいな、墨汁でいいのに」と思ってたのと。
あとそろばんも行ってたよ。これは友達がみんな行ってて楽しそうやったから自分から「行きたい」言うて。苦手やったけど。
ーー ええー!すごいたくさん行ってる!
あと水泳教室も。
スケート教室も行ってた。
ーー すごい、文武両道ですね。
一つ上のいとこが理系のとても優秀なひとで、僕が落ちこぼれやったので数学とか教えてもらったり、習いごとも一緒に行ったり。
プールは扇町まで電車乗って。スケートは桜ノ宮。そのいとこと一緒にね。
ーー 子どもにとっては結構遠い場所・・・年齢が近い同士で一緒に行ってくれる人がいるといいですよね。
お母さまも色々な体験をさせてやりたいという思いがあったのでしょうか。
そうやねぇ。
中学入る前に英語の発音を、とか子どもの教育ということは考えていたのかもしれない。
理系?文系?
ーー ご自身も理系ですか。高校時代は化学を専攻されたんですよね。
僕は文化系やね。
父親は電機関係で理系、母親は教えている教科では現代国語が得意だった文系。
4歳上の兄貴は大学は工業化学で理系。
それを見てて僕もいけるかなと思って高校は工業化学に行ったけどついていけなくて、興味もなくて、授業中はずっと小説読んでたりとか。
ーー それ普通に文系・・・
そやね、文系、て思って。
で工場見学とか行ったら、もう無理て。絶、対、無理、て。
ーー 化学の面白いところは何もなかったですか?
とにかく覚えることが多い。面白い先生の授業は面白かったけど。
まあ早く理系じゃないとわかったからよかったよね。
大学は文学部に行こうと思ったけど、受験勉強よりも小説を読んで2年間過ごしてた。
受験勉強しながらもノートの端々に絵を描いていて、ルノワールの画集買ってきたり松坂屋で『印象派100年展』(1974年)見て「ああ、こういう世界いいよね」と思ったり。
幼稚園くらいのときに『ポパイ』の絵を描いたり、絵を描くのは楽しいていうのはずっとあったよね。
これでは受験受からない、となったときに何が好きなのかと考えるとやっぱり絵がおもしろい。
でも経済的に親は頼れないし「絵に似ているような職業」と考えて、黒田征太郎とか横尾忠則とか当時テレビにも出たりするくらい活躍していて「ああ、イラストレーターて職業があるのね」と思ってデザインの学校に進学しました。
デザイン学校では今までの工業高校とは違って肌合い、感受性が合う、自分が傷つくところとか分かり合える人が多くて楽になった感覚があった。で、その世界がいいなぁと思ってけっこう楽しくやってたけど、仕事になるとそれだけではなく経済的なこともあって好き勝手できないからまた嫌になっちゃって。
ギャラリーの仕事をするようになってまたすごい人たちと出会うから「これやっぱり無理ね」と。
仕事していて憧れのアーティストを前にすると「こんなひとの前で自分が絵を描いてるというのは失礼すぎるよね」と思って。
今でも家内には「絵描きになると言うてたんちゃうん?描けへんの?」と言われているけど(笑)
絵を描き続けているひと、とは?
ーー 今うちの子は3歳ですけど、しょっちゅう絵を描いています。子どもはみんな描かせようとしなくても絵を描きますよね。わたしも小さい頃は描いていたんだと思いますが、描かなくなった。
一方で大人になってもずーっと絵を描き続けているひともいます。あれはなんなんでしょう。
あれはね、精神安定とリハビリやと思う。
無いと生きていけない人たちが描いてる。
アーティストでもたくさんいます。
大竹伸朗とか自分の展覧会オープニングで会場に来ても、描きたくてすぐ帰ってしまったりとか。
自分の精神的な足りないものとか不安定さを補うためにほとんど中毒状態で描いているので、作品が売れる売れないとは関係ない、生活も関係ない。
描いていないと自分が破綻するので続けている、というだけでその中には商業的に成功する人もいればそうでない人もいる、ということ。
今でもよく覚えているのがフランスの画家で美術評論家のアルマン・ドゥルーアン(Armand Drouant)の書いた『絵画教室』という本のなかに「絵を描くことを禁じられたらあなたは死にますか?」※2とあって。
※2『絵画教室』アルマン・ドゥルーアン著 / 徳田準・西沢信弥 訳
あなたはあなた自身にうちあけていうのだ、もしあなたが絵を描くことを禁じられたら 、あなたは死ぬだろうか 、と。それもとくに、深夜、すべてが寝静まった時刻、きいてみたまえ。わたしはほんとうに絵を描かないではいられないのか、と。
アーティストというのはそういうひとです。
ーー あ、描いてないと死ぬんですね。
それは物理的にか精神的にかはわからないけど。
僕は即答で「死なない」と思って。
これは本物ではないな、と。
ーー 奥様※3は絵を描かないと生きていけないタイプですか。
そうそう。
あれ無くすと無理よね。
※3加藤さんの奥様は画家・銅版画家の朝日みお(あさひ みお)さん。
ーー 本物だー。ご結婚は早かったのですか。
あ、僕2回目なんよ。
前は25歳くらいのとき、奥さんはもっと若くて23歳くらい。彫金やってた人で。
ーー やっぱり作るひとだったんですね。
うちの母が病気で55歳で亡くなって、奥さんはジュエリーデザインやってたけど家の都合で辞めさせてしまったりうまくいかなくなって。まだ若かったし「出て行きます」て。
今の家内とは32歳のときに一緒になった。結婚してからは33年になるかな。
今が一番いい
20代は暗黒の時代やったね。
母親は死ぬし、嫁さんには出ていかれるし、デザインの仕事は嫌やし。
ーー そうなんですね・・・経歴だけ拝見しているとデザイナー時代もかなり華々しくご活躍していらしたようにしか見えていなかったです。
デザインは言われたことを確実にやって届ける、という仕事だったから面白みもなくて。
ギャラリスト時代も自分で企画もデザインもやっていたけど、ここでのデザインは自分の好きにできる。紙を選んだり特色使ったり、こだわってポスターに高価な紙使ったり・・・これは楽しかった。
いろいろな面で好きにできたのは児玉画廊のオーナーの児玉さんに資産力があったということが大きいけど。
ギャラリーの仕事を始めたとき、訳のわからん現代美術なんかよりはいいんじゃないかと思って児玉さんに「工芸とか、ピカソやシャガールもありますよ」と提案はしたけれど、まだ世間的に評価が定まっていないものだとしても現代美術がいい、と言われて。
ーー なんと、現代美術を扱っていらした理由にはオーナーさんのご意向もあったのですね。
ギャラリスト時代は企画もデザインも更には接客まで、展覧会の仕事や評論の仕事と並行して教授業も10校とか行ってませんでしたっけ。アートのお仕事もすごく忙しそうです。
忙しいとは言ってもデザインみたいに3日間連続徹夜、みたいなほどではないし。締め切りもゆったりしていて。
アート関係の仕事になってから随分気が楽になった。
ギャラリスト辞めたらもっと楽になって。
うん、今は一番いいんちゃうかな。
でも人生って8割以上、ほとんどが運やと思うよ。
ーー いや、、でもそれを生かすことができるかは本人次第ですよね。
やったことのないことでも「できます」と言い切ってしまえるかどうか(笑)その「できます」には多かれ少なかれ経験からか想像力か、なにがしかの根拠はあるように思います。
中学高校時代はラジオとレコードとギター
でもねぇ。
ーー はい。
幼稚園から高校くらいまで、そのくらいのことはよく覚えてるよね。
そのあとのことはそんなに覚えてない。
ーー えええええーまじですか!?
なんでも初めてということもあるんだろうけど。
ーー えー、こんなに次々と大きな仕事していても・・・?
よく覚えているのはそのくらいの歳のことやね。
中学時代はバレーボールやってて。その前はバスケットボールもやってたけど練習がきつくて「東洋の魔女」とかあって流行ってたバレーボールに転向して。
レギュラーやるくらいにはやっていたけど、そのころから音楽が好きで家帰ったらレコードを聴いて。ラジオをずーっとお風呂のときも寝るときも聞いてたね。
小遣いは全部レコードにつぎ込んでて。
洋楽漬けで、ラジオの「電話リクエスト」や雑誌の「ミュージック・ライフ」で新しい曲やビルボードチャートをチェックして商店街のレコード屋に探しに行く。
聞いたこともないけどとりあえず買ったり。たまに大失敗したりして。
それに全精力を注いでいた。
ロックはレッド・ツェッペリン、ビートルズ、モンキーズ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル。
フォークが好きでボブ・ディラン、ジョーン・バエズとか。一番影響されたのはボブ・ディランの曲をカバーしていたピーター・ポール&マリー。
ほかはニッティー・グリッティー・ダート・バンドにライ・クーダー。日本のフォークなら五つの赤い風船、高石ともやとザ・ナターシャ・セブンかな。
ーー ギターはいつからですか?
中学生の頃から弾いていたけど自分のギターを買ったのは高校のときかな。その商店街のレコード屋には楽器も売っていて。
完全独学、弾き方は本買ってきてそれを見て、曲は自分で耳コピしたりとか。
譜面見つけて見てみたら半音違ったりとか。当時はオープンリールだったりしてね。
音楽が今でも大好き。
特にその時代の音楽が今でも好きやね。
カラオケに行くと年代ごとのポップス、とかあって見ていくとだいたい20歳くらいで途切れて、あとは知らない曲がいっぱい出てくる。
一番好きなのは60年代の曲。年齢的には小学生から中学生のころ。
ーー おませさんですなぁ。
洋楽聴いてるのがクラスで一人いてるかいないかくらいで友達を探してレコード交換したりしていたなぁ。
当時は歌謡曲をバカにしてたね。
ーー 商店街で演歌がかかってたからじゃないですか。
そうかもね。反発心かも(笑)
館長をおつとめの「宝塚市立文化芸術センター」
ーー 今日は平日の昼間ですけど、子連れ率がとても高いですね。
そうそう、子連れ多いでしょ。
マンションもあって、向こうに見えるのは産婦人科の病院。来てくれたかたと話すと「宝塚に住みたくなった」ていうひとも多いよ。
ーー はい、すごくいい環境。
以前子どもと伺ったときは日曜だったのですが、ガヤガヤしていなくてとても落ち着いて過ごせました。
ーー うちの場合はやんちゃ息子、対してわたしはインドア派で。
一緒にお出かけのときはそのすり合わせが難しいけど、現代美術の展示はやってるわ、大人向けの本もあれば赤ちゃんから読める絵本もあるわ、飲食できるわ、お庭はあるわ、広場もあるわ、公園もあるわ、ここに来ればどちらも満足できる環境です。
ここは教職の仕事がいくつか定年になり、少し時間に余裕ができたいいタイミングで声かけてもらった仕事で。
市民からも愛されたガーデンフィールズのころの庭を残しています。この庭があることに惹かれたのもこの仕事を引き受けた大きな理由のひとつ。
ーー ということは、彫刻の野外展示やランドアート系の展示もありえそうですか。
そうね、大久保英治※4さんの展示も予定してるよ。
ーー 今後の展開も楽しみですね。
今日はお忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。
※4【大久保 英治(おおくぼ えいじ)】
西宮市に生まれ、岡山県矢掛町で育つ。1967(昭和42)年日本体育大学卒業、1975(昭和50)年京都教育大学養護教育課程専攻科修了。1978(昭和53)年頃から流木を用いた作品制作を始め、1980年代に度々渡英。木や石などの自然物を素材として表現するランドアートの作家と交流し、フィールドワークに基づく独自の作風を確立。
加藤さんは下記リンクほか、過去に企画協力やカタログへの寄稿等されていらっしゃいます。
GINZA MAISON HERMÈS Le Forum「地球を歩く 風をみる」 大久保英治展
わたしの感想
加藤さんが「加藤義夫芸術計画室」を立ち上げられ10周年に出版された著書「加藤義夫芸術計画室10年全仕事 ヨッチャンの部屋」の冒頭に書かれたお母さまのエピソード。
小学生の頃、「給食のおばさんに感謝の気持ちを送ろう」というテーマで作文を書きなさいという宿題が出た。僕は文章を書くのが苦手で、明日、提出しなくてはいけない作文を夜になっても書けない。横で見ていたお母ちゃんが業を煮やして「今から私が言うとおりに書きなさい」ということで、まるまる完璧に丸写しをして提出した。
(中略)
後日、担任の先生に呼び出された。なんと!あの宿題の作文を全校生徒の前で朝礼の時に発表するようにという指令。みんなの前でマイクをとおして作文を朗読することになったが、後ろめたさでいっぱいだった。お母ちゃん原作の作文は、給食のおばさんを励まし感謝するような模範的な作文だった。
「加藤義夫芸術計画室10年全仕事 ヨッチャンの部屋」
以前のわたしは
お母さん、これあかんやつなのでは・・・
と思っていましたが、今回お話を聞いていてちょっと違うかもしれないと思いました。
お母さん(加藤さんのお祖母さま)の思いを受けて教師になり、お見合いで公務員のご主人(加藤さんのお父さま)とご結婚されて、という立場を思うと、子育てについても並々ならぬ責任を感じていたとしても不思議ではなく。
しかも今のわたしより若い頃のこと。
復職して子育てもしながら働くだけでも、この時代にかなりかっこいい女性だったに違いない・・・!
戦ってきたであろうものの多さと重さを思うと、ちょっと違う風景に見えてきませんか。
おそらくは時間も余裕もない中で、子どもに対して自分が伝えられるすべてを伝えていらっしゃるエピソードのようにわたしには見えてきました。
そして
やっぱりご家族もご本人も優秀なかたなのだなぁ・・・
と思う一方で、インタビュー中に何度聞いたかわからないほどの「向いてない」「向いてなかった」「無理」というフレーズ。
高校では化学を専攻されて「向いてない」、デザインのお仕事も「向いてない」、絵も「無理」、ギャラリーでのお仕事も「向いてない」。そして現在は展覧会を企画したり評論を書いたり大学で教えたりというお仕事をメインにされていらっしゃる加藤さん。
眼前の世界やご自身をも冷静に捉えられて分析した行動やご判断は理系な気がしますし、作品を作る立場から見たアートの世界、デザインの問題解決能力やギャラリーでの多岐にわたる総合的なお仕事、その全部が繋がって現在のお仕事を成立させているようにわたしは感じました。
加藤さんのお祖母さまがおっしゃった「知識や教養は盗まれないし失われない」という当時切実だった考え方。
学芸員資格も持たずバリバリのキュレーションをする、大学を出ていないながら教壇にも立つ・・・加藤さんのお仕事ぶりからは、知識や教養は「盗まれないし失われない」どころか「他人に惜しみなくシェアし続けても決して涸れない」、そして伝えたその先々でも発展し続けるものだと解ります。
資格も免許も要らない文字通りの身ひとつで様々なアートの現場を豊かにし、ご活躍し続けておられるお姿をインタビュー当日も垣間見て
お祖母ちゃーん!お母ちゃーん!
息子氏、その思想をこれ以上はないってくらいに体現してはるでーーーーっ!!!!
と、他人のくせに胸がぎゅっとする思いに堪えられずうっかり武庫川に叫んでしまいそうでしたがさすがに実際には叫ばないので、胸がぎゅっとしたまま帰途につきました。
最後になってしまいましたが、加藤さんの今後直近のお仕事をご紹介させてください。
加藤さんの今後のお仕事
展覧会
Made in Takarazuka vol.1 辻󠄀司 七〇年の絵路(かいろ)-メアンドロの光芒-
会期 | 2020年11月14日(土)~12月20日(日) ※休館日:毎週水曜日(祝日は除く) |
開館時間 | 10:00~18:00(入場は17:30まで) ※事前予約不要。 ※入館時に検温を実施しております。ご協力お願い致します。 |
会場 | 宝塚市立文化芸術センター2階メインギャラリー |
観覧料 | 中学生以下:無料 大人:800円 身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳を提示された方、 左記手帳を提示された方が必要とする介護者の方1名:無料 |
主催 | 宝塚市立文化芸術センター[指定管理者:宝塚みらい創造ファクトリー] |
未生空間ism展
会期 | 2020年11月13日(金)- 23日(月・祝) ※休館日:11月18日(水) |
開館時間 | 11:00 – 17:30 |
会場 | 宝塚市立文化芸術センター[サブギャラリー] |
観覧料 | 無料 |
主催 | 未生空間イズム 2020 in 宝塚 |
協力 | KAZE ART PLANNING |
未生空間ism展【ギャラリートーク】
日時:11月22日(日)14:00 – 15:00(予約不要)
宝塚市立文化芸術センター館長 加藤義夫 × 未生空間イズム 2020 in 宝塚 シニアアドバイザー 澤昭夫
※申込みは不要ですので、直接会場へお越しください。
※参加者多数の場合は、入場を制限させていただくことがございますので、ご了承ください。
「冨永真理の世界 – With the wind -」展
会期 | 2020年11月27日(金)〜12月1日(火) |
開館時間 | 10:00 – 18:00(最終日は16:00まで) |
会場 | 宝塚市立文化芸術センター[サブギャラリー] |
観覧料 | 無料 |
主催 | 加藤義夫芸術計画室 |
そのほか、立ち上げより関わっていらっしゃる大阪発のアートフェアART OSAKA、今年(2020年)は12月に場所を変えての開催を予定されているそうです。
これからも加藤さんのお仕事を拝見できる機会がたくさんありそうで楽しみです!